丸屋創業物語

第1章 若き幸之助 大志を抱いて満州へ

明治32年 博多湾が開港

町の名前も福岡と博多が統合して福岡市と改まったこのころ、佐賀の小さな農家の5人兄弟の次男として幸之助は生まれました。 後に養子縁組で原 幸之助となります。

幸之助はよく働きました。
調味料を扱う商店で親方や番頭さんに育てられ、商売人としての才覚を磨いていきました。

当時日本の若者が夢中になっていたのは、時代劇役者の長谷川和夫。
銀幕デビューと同時に一気にスターの地位まで駆け登った彼の存在は、同年代の幸之助にとっても憧れでした。
「俺もいつか一旗あげてやる」
20歳となった幸之助は将来の夢に自分の店を持つことを掲げました。

その頃、日本政府は中国大陸での権益を拡大していました。 日本と対立するソ連が中華民国と親密になるにつれ、良好だった日中関係も次第に悪化していきます。

昭和6年 満州事変が勃発

迎えた昭和6年、満州事変が勃発。日本陸軍は満州をその支配下に置きました。
国民の注目は大陸へと集まります。
幸之助はこの機を逃しませんでした。
「一旗あげるなら満州だ」
いよいよ彼の夢が形となる日がやってきます。

昭和9年 満州国鞍山で原呉服店を開業

幸之助は満州国鞍山の地で原呉服店を開業します。
使うのは京都の一流の反物。
これから街が発展し人々が豊かにお洒落になっていくと見据え、狙いを定めたのです。

幸之助は、
「呉服を売るためには自身が洒落者であろう」
と常日頃から心がけていました。上等な和装に身を包み、当時貴重な舶来品の香水を振って日々颯爽と営業へ出て行きました。

仕事熱心で容姿端麗、おまけにお洒落の達人となれば周囲が放ってはおけません。
幸之助はたちまち満州実業界で人気者となり、原呉服店は大いに繁盛しました。

幸之助は私生活にも恵まれます。
愛妻、純子との間に4人の子が生まれました。
子供達をしっかりした学校に通わせ、娘たちには日本舞踊などを習わせました。

この頃の原家の日誌の一文です。
"李香蘭 長谷川一夫 奉天ヘ来タル 帰リニ 鴨鍋ヲ食ス 父機嫌頗ル良シ"
当時の銀幕の大女優、李香蘭と長谷川一夫がともに満州に来訪。
その姿を一目見ようと家族で鉄道旅行へ出かけた、彼らの生活の豊かさが伝わってくる日誌です。

この時幸之助38歳。
実業家として成功し家族に愛される父となった、まさに人生の幸せをようやく手に入れた頃でした。

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