丸屋創業物語
第3章 受け継ぐ者たちの物語
昭和56年 原 康幸 代表社員就任
昭和56年、福岡では路面電車に変わって地下鉄が登場。
西鉄ライオンズがリーグ3連覇に向かって快進撃を始めたころ、幸之助はその83年の人生に静かに幕を閉じました。
あらゆる困難に立ち向かい、その生涯をかけて丸屋を創業した幸之助。
後を託されたのは、大学卒業後に教員となり、後に丸屋へ入社した息子の康幸でした。
そんな康幸が社長を継いだのは50の時。
当時、丸屋と同業の会社が周囲に増えていたことから、
他社との差別化が必要と感じます。
ひらめいたのは看板に英語を取り入れること。
当時まだレンタルという言葉は世間に馴染んでいませんでしたが、
景気の後押しを受けて徐々に広まっていきました。
また、社内に野球部を作るなど、康幸は楽しい職場作りを目指しました。
康幸にとって家族とは、丸屋そのものでした。
そんな康幸でしたが、悩みがありました。
息子の康一です。
何不自由なく育った康一はツッパリブームと矢沢永吉に没頭。
ある日突然、 「俺は板前になる」 そう言い残し家を飛び出したままでした。
行く先を失い家に戻った康一に康幸は何も苦言を言わず、丸屋への入社を勧めます。
そんな父の愛情に触れた康一は
「これからは父を支えていこう」
そう心に誓いました。
平成元年 陣頭指揮が息子、康一に託される
迎えた平成元年、福岡ではアジア太平洋博覧会よかトピアが開催され
天神には当時最先端のファッションビル「イムズ」が竣工するなど、街の発展に向けて開発が進んでいました。
康幸は60半ばを過ぎ、陣頭指揮は息子康一に託されます。
丸屋の業績もとても順調に見えました。
しかし、ここにきて経営の甘さが浮き彫りになります。
売り上げは伸びているのに会社の資金が徐々に減っていることに、当初誰も気付いていませんでした。
取引が増えるということは、その為に布団を買い足す必要があります。
気が付いた時には手遅れに近い状態でした。
「このままだと2年も持たずに資金が底を突く…」
丸屋は経営難に陥ります。
康幸と康一は取引先を回り、支払い期限を延ばしてもらうよう頭を下げます。
銀行との折衝も続きます。
道は2つ。
社員を減らして、丸屋を縮小するか、
あるいは原家の財産を打って目の前の窮地を凌ぐか。
康幸の脳裏に貧しかった頃の父の言葉がよぎります。
“家族に苦しい思いをさせてはならない”
家族とは丸屋そのものでした。
すぐさま自ら所有する土地と家を売却。
貯金も生命保険も、価値あるものすべてを手放しました。
この康幸の決断と康一による経営計画の刷新は、銀行を動かしました。
平成11年 原 康一 代表社員就任
平成11年、丸屋は取引銀行による起業支援を受けることに成功。
間一髪のところで倒産の危機を免れることができました。
その後、三代目社長となった康一のもとで、会社の経営状況は回復していきます。
レンタル丸屋は九州中へ販路を拡大します。
平成28年 家迫 崇史 代表取締役社長就任
平成28年、康一は55歳で会長となり、39歳の家迫に経営を委ねました。
現在提供しているお布団の総数は、およそ2万組。
創業当時わずか50組だったのが、実に400倍の規模にまで成長を遂げました。
福岡の本社、北九州支店、福岡西営業所、メガクリーンセンターと福岡県に4つの拠点があり、また、南九州は鹿児島営業所を構えています。
家迫社長による福祉用具の新事業も軌道に乗り、こうして新しい丸屋の幕が開けました。
100年の時を超えて
丸屋、その創業の物語は今からちょうど100年前。
幸之助が
「いつか一旗揚げてやる」
そう誓った、20歳の日に遡りました。
彼の夢は一度は失われましたが
永らえた命と家族と、弛まぬの努力と才覚によって蘇りました。
そのバトンは次の世代へ手渡されて、しっかり前へ進んでいます。