丸屋創業物語

第2章 いよいよ丸屋創業

昭和16年 太平洋戦争 開戦

昭和16年、太平洋戦争が始まり、やがて日本は世界から孤立。
ソ連の参戦をきっかけに満州の日本陸軍は瓦解します。
幸之助一家は店も家も財産も全て失ってしまいます。

その後、命からがら奇跡的に日本に戻った幸之助一家は、戦後の焼け野原となった福岡で再起を図ることになります。

昭和20年 終戦

終戦後、日本に戻った幸之助一家は知人を頼ってしばらく田舎に身を寄せていました。
幸之助は豆腐やかまぼこ、アイスキャンディーを売り歩いて
わずかな稼ぎを得ていました。

この頃の暮らしは豊かではありませんでした。
妻や娘たちは一日中、バケツを持って線路脇に立ち、走りすぎる炭鉱列車から零れ落ちる石炭を拾い、 それを釜戸にくべてわずかな食事を炊いていました。

幸之助は必死に働きました。
「家族に苦しい思いをさせてはならない」
そんな父の思いもあって、子供たちは勉学に励みました。
昭和24年、息子の康幸が国立東京学芸大学に合格。

一家に笑顔が戻りました。

そんなある日

そんなある日、幸之助の元に旅館の主が相談にやってきました。

「あんた満州じゃ呉服屋をやっとったそうじゃないか。
だったら針裁縫も得意だろう。うちの布団を打ち直してくれんかね?」

打ち直しはいわばお布団のリフォーム。
幸之助は、慣れない仕事ながら次々に舞い込んでくる布団をひたすら打ち直す日々を過ごすうちに、しばらく眠っていた商売人の才覚が目を覚まします。

“今町には九州中から労働者が集まって宿屋休憩所が増えていると聞く。
ならば布団が足らなくなるのではないか?”

また、幸之助の予測はそこに留まりませんでした。
そもそも寝泊まりの商売では部屋の数だけ布団を買っておかなければなりません。
ですが、実際はその日泊まる人の数だけ布団があればいい。

“ならば必要な時に必要な数だけ借りられる布団があれば
宿は助かるのではないか?”

幸之助は動きました。
昔の伝手を頼ってお金を工面。
布団50組とリアカーを手に入れます。

「この50組は第一歩だ、軌道に乗れば100組500組と増えていく」
そう心に描きました。

悩んだのはこの商売の屋号です。
幸之助は満州の店が続けられなくなったのは
そもそも”は”という字は葉っぱの葉に通じており、散ってしまうから縁起が悪いと考えました。
○の中に一体何を入れたら良いか?
そうやって○と向かい合っているうちに幸之助はひらめきます。

「いっそ、丸屋というのが潔く響きも良いじゃないか!」

昭和28年10月 丸屋 創業

こうして昭和28年、貸し布団丸屋が産声をあげます。

“お電話一本で清潔なお布団がお手元へ”
薬院大通六角丸屋

この頃の福岡は大空襲から8年が経ち、街の復旧が目に見える形で進んでいました。
呉服町には大型施設、博多大丸が開業し、その高層階には博多帝国ホテルが入居。
市民の関心を呼びました。
街には路面電車が走り、特に当時一番の歓楽街であった清川(当時は新柳町と呼ばれていました)通り界隈には旅館や遊郭が所狭しと立ち並び、花街として賑わっていました。

こうした町の復旧や賑わいを後押しに、丸屋の貸し布団は評判を呼びます。

工面した借金も最初の1年で完済。
残った利益で布団を買い足し、商いは徐々に軌道に乗ります

昭和34年 法人化

昭和30年代に入ると、労働者によるストライキが盛り上がりを見せます。
全国でもストが年間2,000件以上発生、参加者も170万人に及びました。
福岡の街でもストが頻繁に起きます。

これが丸屋にとって追い風になりました。

ストの集会所には大量の布団が必要になります。
これを丸屋が引き受けることで売り上げは大きく伸びました。

勢いを得た丸屋は、昭和34年法人化します。

昭和40年 福岡商工会議所会員

昭和40年には福岡商工会議所会員となり、地元企業の仲間入りを果たします。
幸之助65才。
満州から引き揚げて早20年の月日が経っておりました。

丸屋について